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 「選択」という言葉の辞書的な意味は、「多くのものの中からよいもの、目的にかなうものを選ぶこと」です。聖書の中で、このような選択は神様の絶対的な主権の領域にあります。ただ生きておられる神様にだけ選択権があるのです。ですから、ヨハネによる福音書1516節を見ると、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」と語っておられます。一言で言うと、選択はどこまでも神様の主権と完全な自由の意志によって、人間のいかなる善行や功労とは関係なしに与えられることが聖書の真理なのです。


 神様が私たちを選ばれたのは、「創造される前」(エペソ1:4)からだと語られています。宇宙万物を創られる前に神様はすでに私たちを見て、選んでくださったのです。信仰の先祖アブラハムがメルキセデクに十分の一を捧げたとき、レビはまだ生まれてもいない孫でした。それにも関わらず、神様はアブラハムが十分の一を捧げたために、その腰の中にいたレビも十分の一を捧げたと神様は語られました(へブル7:9-10)。このように神様は、私たちが生まれる前から前もって「選択される」という祝福を与えてくださったのです。


預言者エレミヤにも神様はこのように仰せられました。

「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の予言者とした。」(エレミヤ1:5)


 神様は、このように世の初めから選ばれた神様の尊い民は、天国に入ることのできる救いの祝福を受けた者たちです。テモテへの第二の手紙4章18節を見ると、「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れてくださるであろう。」と確かに語っておられるのを確認できます。ガラテヤ人への手紙1章15節にも「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもって私をお召しになった方」と語っておられます。創造される前からすでに私を選んでくださった神様の恵みと愛を悟り、ただ主だけに奉仕し、忠誠する歩みを歩まなければなりません。そのような信仰の歩みをもって神様に応えることが、クリスチャンの姿勢なのではないでしょうか。

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