82026f1fbd57afc07fded255516a40e0.jpg 私たち自身も死ぬべき弱い存在(エノス)であることを悟ってから、初めて神の前に生きた供え物として霊的な礼拝を捧げることができ(ローマ12:1)、そのような心で神の御名を切に求めてこそ「救い」を贈り物として受けることが出来ます(使徒2:21,ローマ10:13)。

 使徒パウロは「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ7:24)と告白しています。彼はそのように、自分の力では死に勝つことが出来ないエノス的な存在であることを悟った後、ローマ8章1~2節で、「罪と死との法則からあなたを解放したからである」と告白するに至りました。また使徒パウロは「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリ12:9)という御声を聞き、かえって自分の弱さを大いに喜びました。何故なら、その弱さの中で神の御名を呼び求めた時、初めてキリストの力が自分の内にとどまるという深い真理を悟ったからです。
 「軟弱な人」というエノスの名前が意味するように、人間は非常に弱く、常に試みや誘惑に陥りやすく、いつでも罪によって身動きがすることができない力のない存在です。そして、その罪によって死が定められている存在です。エノスの時代にいた敬虔な人々は、神の御名を探し求めること、叫び求めること、すなわち礼拝を捧げることに全心全霊を注ぎました。彼らは、人間が罪と死の重荷に押さえつけられている弱い存在であることを全身で告白しています。ただ「女のすえ」によってでなければ、人間は自らを救うことが出来ない無力な存在であると告白したのです。今も、自分自身が「エノス」であることを告白し、真心から神の統治を待ち望む者たちをもって、真の礼拝が捧げられる信仰の復興が強く求められる時代ではないでしょうか。

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