1代アダムⅡ‐人、人類、人間

2015.11.17 21:50

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Ⅱ.エデンで起こった栄華で輝いた体験を証しました。
(1)裸でも恥ずかしいと感じない世界だったことを教えたはずです。

 

創世記2:25
 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

 

 アダムとエバが堕落する前は「裸であったが恥ずかしい」とは思いませんでした。しかし堕落した直後、罪に対して眼が開かれるやいなや、自分が裸であることを知り、体の一部をいちじくの葉を綴り合わせたもので隠しました(創3:7)。創世記3章10節に「あなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて」とあるように裸であることを恐れて身を隠したのです。裸であるゆえの恥は恐れをもたらし、神の顔を避けて身を隠させました。この恥と恐れの原因が何であるかを実際体験したアダムは、その子孫たちに恥も恐れもない世界があったことを、彼らの心に深く刻ませたことでしょう。エデンの園では輝く神の栄光と溢れる平安と愛によって、何一つ咎がなく、人の顔色をうかがうことも、罪責感もありませんでした。アダムがそのような世界を果たして忘れることが出来るでしょうか。

 

 

(2)エデンの園を歩まれる神の御声をその耳で聞き、

直接言葉を交わしていたことを語り聞かせたことでしょう

(創2:1-16,3:9,10,17)。

 

 エデンの園でアダムは、神と直接対話していました。だからこそ「エデンの園」はその言葉通り、「喜びの園」であり、「楽しみの園」だったのです(詩36:8)。しかし罪を犯した後は、神の御声が恐れと苦しみに変わりました。「あなたはどこにいるのか」とアダムを呼ぶ声に、いつものように「わたしはここにいます」と答えることが出来ず、神の顔を避けて、園の木の間に身を隠すまでになってしまいました。そのような彼を待ち受けていたのは、喜びの園であるエデンの園からの追放でした(創3:23)。
 神と共に歩みながら、言葉で言い尽くせない喜びと楽しみに満ちていたエデンの園での日々を、懐かしく思い出しながら、アダムはエデンの園の回復を望んでいたことでしょう。その切なる思いを彼は、その子孫たちに熱く語りながら神の御言葉を幾度も繰り返し伝えたはずです。

 

 

(3)神から与えられた知恵をもって、

万物に名前を付けたことを話して聞かせたはずです。

 

創世記2:19
 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところ

 へ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に

 与える名は、その名となるのであった。

 

 神のかたちにかたどって創造されたアダムは、優れた知恵と創造力を持っていました。数千、数万種にも及ぶ生き物の名前を付けることは、決して人間の知恵では不可能なことです。それは、万物を造られた神の霊によって生かされた者だけが出来るわざです。まさに神の知恵を受けたソロモン王が「草木のことを論じてレバノンの香柏から石がきにはえるヒソプにまで及んだ。彼はまた獣と鳥と這うものと魚のことを論じた」(列上4:32-34)知恵を持っていたようにです。
 このようにアダムがすべての生き物の名をつけた時、彼は神から与えられた万物に対する統治権を満喫したことでしょう。しかし罪を犯した後、その大いなる知恵は彼を離れ去り、万物に対する権威や影響力も同時に失いました。これらすべて自分が体験したことをアダムが子孫たちに伝えなかったはずはありません。

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