信仰の領域の確保

2017.10.27 21:03

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 セムはアルパクサデを通じて、信仰の領域が確保されることを望んだはずです。神の溢れる恩寵と祝福を受けたセムは、3番目の子を生んでその名をアルパクサデと名づけました。アルパクサデの「領域」と言う意味の中には、子を通じて信仰の領域、すなわち救済史的足場を設けることを願うセムの切なる期待が沁みこんでいたようです。
 このようにセムがアルパクサデを通じて信仰の領域、福音のための霊の足がかりが築かれるようにと望んだ事は、まるで箱舟から放たれた2番目の鳩が足の裏をとどめる所(鳩の足の裏をとどめる小さな安息所)を見つけて、くちばしにオリーブの若葉を持って帰って来たことを想起させます(創8:8-11)。その時ノアは、地から水が引いたのを知って安堵の胸をなでおろしながら望みを抱きました。
 神の救済の御わざは、まず神が御自身の領域を選択することから始まります。神は救済の足場を設けるための拠点としてパレスチナの小さなイスラエルを選択されました。選択されたイスラエルは、神の自己「領域(地)」だったのです(ヨハネ1:11)。神は、洪水後に生じたもろもろの国と諸民族の中で(創10:31-32)救済の御わざのために1つの国を選び、尊い民とされたのです(申7:6,10:15,26:18,32:9)。
 預言者アモスは選民の誕生をこのように言いました。


アモス3:2a 地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った。


 その選択は選民が持つ特別な資格や条件のためではなく、絶大なる神の恵みによるものでした(アモス9:7)。預言者アモスは、このような神の選択に対する恵みを忘れて自慢すれば、過酷な裁きから逃れられないであろうと警告されました(アモス3:2b)。
 時が満ちるに及んで(ガラ4:4)、神はいにしえから選んでメシヤを迎え入れるように備えたイスラエルの地にイエスを送られました。その地は「自分のところ」でした(ヨハネ1:11)。人の子がまくらする所でした(マタイ8:20,ルカ9:58)。アブラハムの時から区別し、立てられ、守ってきた「自分の領域」であったのです。
 実際にイエスの公生涯の御わざの範囲は「イスラエルの地」という小さな領域から大きく離れる事はありませんでした。イエスは大部分の時間を「自分のところ」で過ごされました。
 私たちは自分の娘の病を治すために遠く離れたカナンという異邦(スロ・フェニキヤ地方─マルコ7:26)からたずねてきた女に、イエスは冷たく言われたことを思い出してみましょう。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」と言われました(マタイ15:24)。また伝道のために弟子たちを送り出す時も「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け」と言われました(マタイ10:5-6)。
 イスラエルの地は全世界に比べると、その面積は非常に微々たるものです。しかし、戦争での勝利を得るためにあらかじめ小さな橋頭堡を緻密に確保するように、神はこの地で足の裏をとどめて御わざを行える中心、すなわち自分の領域、「自分のところ」を設けられました。神が自分の領域として設けられたユダの地は地理的にもヨーロッパとアフリカとアジアに通じる地域として世界の中央に位置します(エゼ38:12)。今日も私たち一人ひとりが、神が区別し、立てられ、その御心を前進させる「自分の領域」になるよう切に願います(Ⅰペテロ2:9)。

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