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 今日の本文は、ヨシュアが12部族の中で土地を得ることができなかった7部族に、残った土地を7つに分けて、図面にしてくるようにさせた内容です。信じて図面を描いてきなさいということは、今日の私たちに「ビジョンと夢を持ちなさい」ということです。図面を心という白紙に信じて描くとき、神様が必ずその通りに成してくださるということを信じましょう。

1. 神様の契約の成就に対する夢とビジョンを
心の中に描かなければなりません。
 イエス様の初臨を準備する本は旧約であり、イエス様の再臨を待つ本が新約と言えます。また、イエス様が来られる民族を準備する本が「出エジプト記」であり、イエス様が来られる地を準備する本は「ヨシュア記」と言えます。旧約の始めに出てくるエデンの園が、罪によって失った「失楽園」となってしまいましたが、新約の最後で再び本来の姿を回復した「復楽園」として再登場しています(黙示録21~22章)。アダム以後の全人類は罪人です。心に善悪が共存する人間は決して自分で義人になることはできません(ローマ3:10)。しかし罪を悔い改め、私たちの罪の代わりに死んでくださったイエス・キリストを信じさえすれば、失楽園が復楽園に回復するように、古き人が過ぎ去り、新しい被造物として生まれ変わるのです(Ⅱコリント5:17)。
 出エジプトと荒野40年の歴史は、紅海を分けることによって始まり、ヨルダンを分けることで終わります。出エジプトはモーセがはじめ、カナンの地の嗣業分配はヨシュアが終えました。ヨシュアはヨルダンを渡り、血の臭いがする戦争を続けてカナンの地を占領しましたが、数年が過ぎても12部族の中の5部族しか地を得ることができませんでした。これに対してヨシュアは、イスラエルの子孫に「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか」と叱責しました。ヨシュアは中央本部をギルガルからシロに移し、そこに会見の幕屋を立て、地を得ることのできなかった7つの部族からそれぞれ3人ずつ、21人が地を全て回り、7つの部分に分け図面にして戻ってきなさいと命じました(ヨシュア18:1-6)。もしこの時ヨシュアの命令がなかったら、イスラエルはその地を永遠に有することができなかったでしょう。
 信徒のみなさん、「その地を図面して私に戻って来い」という御言葉は、私たちに「各自、どんな考えを持っているのか」と尋ねられる神様の御声です。人の考えでは不可能であっても信仰によって図面を描くとき、望む事が実際に成されるということを信じましょう(ヘブル11:1)。信仰によって図面にし、祈りつつ歩むならば必ず神様は成就してくださいます。

2. 神様の契約を「私の福音」と信じる時、
約束された嗣業を受けることができます。
 使徒パウロは生きておられる神様の御言葉である聖書を確実に信じていたため、それを歴代の先祖たちの福音であるとせず、「わたしの福音だ」(ローマ16:25, ローマ2:16)と表現しました。また彼は、「私は自分の体にイエスの焼き印(烙印,mark)を身に帯びている」とまで語っています(ガラテヤ6:17)。私たちもパウロのように神様の御言葉を「わたしの福音」(Ⅱテモテ2:8)、「わたしたちの福音」(Ⅰテサロニケ1:5,2:14)、「私が伝える福音」(ガラテヤ1:11)であると自信をもって語る強い信仰を持ちましょう。
 カナンの地を描きに行った7つの部族21人が、いつ戻ってきたのかは聖書に記されていませんが、ユダヤの歴史家ヨセプスの書籍によれば、7ヶ月であると記録されています。その量も何枚かの少ない量ではなく、「本」(ヘブル語:セフェル)であったと今日の本文で語っているのを考えてみると、1冊の本になるほど、その地に関する情報を詳しく記録したということを知ることができます。彼らはその本をシロに持ってきて、主の前でくじを引いて分配しました(ヨシュア18:6,8-10)。私たちも今まで図面を描くことをせず、夢やビジョンもなく生きてきたとしても、「神様、今から私は信仰によって正しく、詳しく図面を描き、本として神様の前に捧げます。」という覚悟の祈りを捧げ、これからの人生を夢を描きつつ歩む信徒にならなければいけません。
 本文3節に、これから「くださる地」ではなく、「主が私たちに下さった地」であると、はっきり記録されています。世の始まらぬ先からあらかじめ定められ、私たちを選んでくださった神様が(エレミヤ1:5, Ⅰコリント2:7)、私たちも知らぬ間に下さった地であるということです。ですから、カナンの地の征服は努力によるものではなく、すでに神様の契約、約束によって得られるように御業された地でした。したがって、その地にどんなに強いアナクの子孫たちが生きているとしても、神様の約束を確信し、信仰によって彼らに挑む時、神様が私たちのために戦ってくださり、一人が千を追い、2人が万人を敗ることができました(レビ26:8,申32:30,ヨシュア23:10,イザヤ30:17)。
 神様がアブラハムとイサク、ヤコブに約束された御言葉は永遠な契約であるため、数千、数万年が過ぎても変わることがありません。また私たちがアブラハムに会ったことがなく、たとえ血筋の関係でなくても、ガラテヤ3:7-9にイエス・キリストを信じさえすればアブラハムの子孫となり、アブラハムと共に祝福を受けると語っておられるため、信仰によってその約束の中に私たちも含まれています。よって私たちは、神様の救いの御業が終わるまで、山々がエルサレムを囲んでいるように神様がその民から離れず、囲んでくださるということを信じながら約束の成就のために働き、終わりまで待ち望まなければなりません(詩125:2)。

結論:神様がその戒めを地に下したことにより、その御言葉がすみやかに走って地に下り、世界の果てまで及ぶと言われました(詩19:4, 147:15)。ですから、私たちは走る御言葉をただ掴むのではなく、信仰によってその御言葉と共に走り、多くの人を救う福音のメッセンジャーとならなければなりません(Ⅱテサロニケ3:1)。時を得ようが得ることができなかろうが、福音を持って歩みながら信仰の図面を描き、その図面の本を神様の前に捧げる信徒となりましょう。

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