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 人類はアダムの犯した罪によって神様から離れ、希望がない存在となりました。以前ヨブ記4:7で、罪なく滅びた者がいるかと言われたとおり、罪がある者は必ず神様の審判を受けます。今日の本文に「アダムよ、あなたはどこにいるのか」という御言葉は、罪を犯した人間に対する神様が語られた初めての救済の御声でした。


1.アダムとエバが罪を犯した原因は、
使命をおろそかにし隙を見せたためです。
 創1:31で、神様は造られたすべてのものを見られ、はなはだ良かったと言われました。本来、人間は死ぬことがなく、永遠に神様と共に生きるように創造された存在でした。ただし、神様が禁じられた善悪を知る木の実を食べたら必ず死ぬと言われました(創2:16-17)。
 はじめにエバが造られたときの存在価値は、アダムの「助け手」というところにあります(創2:18)。共同訳には「仕事を手助けする一方」、新共同訳には「彼に合う助ける者」と翻訳されています。これを総合してみるとき、ヘブル語「エゼル クネグド」は「目の前に向かい合う者として助ける者」という意味をもっています。妻はどんなときでも旦那と目を合わせ、どこに行くにしても旦那の目の中にいなければいけません。このようにアダムのそばに必ずいながら、彼を助けることが女が造られた理由であり、絶対的な使命です。
 しかし、エバが自分だけではなくアダムにまで掟を破る罪を犯させ、裸であることを恥ずかしく思い、神様から避けて隠れるようになりました。多くの人々が世に罪が入ってきたことは、女が善悪の実を食べたためだと言いますが、実際その責任は男にあります。神様が、創2:16-17の使命を与えた時はまだ女が造られる前のことであり、アダムが自分の配偶者であるエバに対して徹底的に神様の命令を教えなかったことに問題がありました。

2.神様は彼らが罪を犯した後、
「あなたはどこにいるのか」という愛のメッセージを語られました。
 ヘビは神様の造られた被造物のうちのひとつで、とても悪賢い特徴をもっています。「悪賢い」というのはへブル語で「アルム」といい、「賢く知覚がある、知恵がある、嘘をつくことに利口だ」という意味です。ヘビは誰も気づくことないように、とても賢く罪を犯します。ヘビの外観において最も変わっている点は、全身がヌルヌルしていて地面を這い回り、小さな穴さえあると必ず開けて入っていきます。聖書には明らかにヘビは悪魔、サタンであると書かれてあります(黙12:9,20:2)。わたしたちに小さな隙間ができると必ずサタンの誘惑を受け、罪を犯すようになります。ですから使徒パウロは悪魔に隙をみせてはならないと語られました(エペソ4:27)。韓国のことわざで、「針穴から強い隙間風がはいってくる」ということわざがあります。ユダ1:20-21の御言葉のとおり、神聖な信仰の上に、自分を築き上げることができない人は、いつかサタンが入り込んできて崩れてしまいます。
 エバがヘビと話す瞬間は、すでに毒を飲んだ瞬間でした。エバがしっかりし、ヘビの質問に答えなかったり、神様に聞いてみなさいと言ったのであれば、罪人の道に立つことなく、傲慢な者の座に座らなかったことでしょう(詩1:1)。しかし信仰が堅固でなかったエバは、結局ヘビが言った誘惑の試しに落ちてしまいました(創3:1-3)。女の答えから秘密を探し出したヘビは、善悪の実を食べると目が開けると誘惑しました。ヘビと会話を終えたエバが善悪の木を見ると、誘惑されたエバの目に映った木の実は、前とは違うように見えました。それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思い、絶対食べなければならないという欲が生まれました。自分の目と契約を立てて暗黙の情欲に勝つことができない者は、決して神の国を得ることができません(ヨブ31:1, マタイ5:27-28, Ⅰヨハネ2:15-17)。
 ヘビの言葉どおりに取って食べた瞬間、目が開けたことには開けましたが、服を着てなかったことに対して今まで感じなかった恥ずかしさが生まれ、いちじくの木の葉で隠しました。すなわち純粋な心、純潔な考えがなくなり、罪を犯す能力が明かされました(創3:7)。アダムとエバが堕落した時を、ヨハン・カルビンは彼らが創造された6日目の金曜日だとし、マルティン・ルターはその次の日である7日目(安息日)だと語りました。外典であるエノクⅡ書は楽園で5時間半で堕落したとし、外典である禧年書は7年目に堕落したと書いています。
 隠れているアダムを探された神様の救済史の最初の御声は、「アダムよ、あなたはどこにいるのか」という声でした。へブル語で‘アイェカ’(あなたはどこにいるのか)は、どこにいるのかわからずに聞いたのではなく、罪によって神様との関係が途切れた状態に対した悲嘆の声でした。神様は子どもの心を知る親の心のように、人の気持ちや考えをすべて知っておられるため(ヨハネ2:24-25)、ひとり子イエスを死に負わせてまで人間の罪を解決してくださいました(ローマ5:8)。これは神様がこの世を「このように」、すなわちこれ以上なく最高の愛で、また私たちより神様が先に愛された「先の愛」で人類を愛されたということを教えてくれています(ヨハネ3:16, Ⅰヨハネ4:10, 19)。ですから私たちの間違った心や過去の悪と罪をすべて知りながらも、十字架の代価によって罪を贖って下さり、義を贈り物として与えてくださりました。私達は神様の息子としてくださった神様に感謝し、この福音を伝えながら多くの者を救いに至らせる信徒にならなければいけません。

結論:「アダムよ、あなたはどこにいるのか」という神様の御声は、「アダムよ、あなたは私の中に、私はあなたの中にいなければならない。あなたを心深く愛する私の気持ちは誰も切り裂くことができない。」ということを意味しています(ヨハネ13:34-35, 15:5, ローマ8:39,ガラテヤ5:14)。ですから、山々がエルサレムを囲んでいるように神様が私たちを永遠に至るまで守ってくださるという詩篇125:2の御言葉を信じて、福音の使命に命を尽くす信徒とならなければなりません(使徒20:24)。私たちは「アダムよ、あなたはどこにいるのか」という神様の御声に耳を傾け、神様を離れることなく、いつも神様とともに歩む信徒になりましょう。

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