30.jpg

 救済史とは救済と歴史の合成語で、世界史は神様の広大な救済史であり、新旧約聖書全体は救済史の御言葉です。最初の御言葉である創世記1-3章は、聖書全体の中心であり、救済史全体に対する注釈であるということができます。なぜならここで、宇宙と人と救いの起源、そして信仰の根本原理を明らかにしているためです。


1. エバは自分の位置を離れたためへびに誘惑されました。
 アダムが堕落する前に、先に神様を裏切って堕落したのがまさにサタンです。足の置き場がなくなったサタンは、神様の愛するアダムとエバに目をつけ、男がいなくなったときに、意思の弱い女に静かに近寄りました。神様は誘惑者サタンがアダムに来ることを知っておられ、アダムにエデンの園を治め守るように命令されました(創世記2:15)。獣の中で最も狡猾なへびは(創世記3:1)、神様と人の間に割り込み、神様を信じることができないように嘘で仲違いをさせました。もしエバがへびの質問に答えず、神様に尋ねるように命じて罪を避け、試練に打ち勝っていたなら、人類は永遠に罪がなく、死もありませんでした(ローマ6:23)。

2. 神様は隠れているアダムとエバを捜し、
直ちに救済史の最初の声を聞かせてくださいました。
 神様に不従順し、不安な心で震えていたアダムとエバは、神様の声が聞こえると木の間に隠れてしまいました(創世記3:8)。へびの企みによって神様から離れて死んでしまう立場になってしまった彼らに、神様は直ちに近寄られ、「あなたはどこにいるのか」という救済史の最初の声を聞かせてくださいました。
 信徒の皆さん、私たちもアダムを呼ばれる神様の声「あなたはどこにいるのか」という質問に答えなければいけません。創世記3:10で、「恐れて」とはヘブル語で「ヤレ」の未来形で、神様に対する真の礼拝と関係した敬虔、敬い、敬意、尊敬、信頼するという意味もありますが(箴言1:7)、ここでは罪によって自分の場所から離れた人間アダムの恐怖と恐れの意味として使用されました。ヘブル語「アダム」とは「人」という普通名詞でもあり、アダムの罪は人類全体に適用されるため、神様の御声はアダムにだけではなく、今日の私たちに向けられた呼びかけでもあるのです(ローマ5:12)。
 結論的に言えば、この質問は失われた者を探すための救い主の御声です。最後まで生かそうとする無限の愛と許しが含まれた救いの宣言です。ですからイエス様は「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」と、この世に来られた目的を明らかにされました(ルカ19:10, マタイ9:13)。失われたということは、神様が定められた位置を離れ、間違った位置にいるということです。ですから父の家を離れた者はすべて失われたものです(ルカ15:11-30, 2:49)。人間は道に迷った羊のように間違ったことを行い、それぞれ自分の思ったとおりに進んで離れていく存在です(イザヤ53:6, 詩篇119:176)。ですから神様は、「わたしの民は迷える羊の群れである、その牧者がこれをいざなって、山に踏み迷わせたので、山から丘へと行きめぐり、その休む所を忘れた」と語られました(エレミヤ50:6)。「あなたはどこにいるのか」という声は、今日も全人類の心の中に響いています。戻りさえすれば、十字架の愛のぬくもりによってどんな罪もすべて覆ってくださるという「先の愛」(Ⅰヨハネ4:10, 19)、変わることのない「永遠の愛」(ヨハネ13:1)の御声であり、悲惨な状態に陥った人間に施される一方的な好意です。

結論:存在する世界の歴史は、救済史の展開の現場です。この世には探し出さなければいけない神様の息子たちがたくさんいるため、彼らを探すことが教会の存在目的です。「これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」(マタイ18:14)という御言葉を見るとき、イエス様は必ず失われた者を探し出されます。ですから救済史の完全なる成就まで、ただ主の十字架の愛を持って失われた者を探すことに全力を尽くし、出るにも入るにも祝福を受ける信徒になりましょう(詩篇121:8)。

XE Login