第二に、朴潤植牧師の本は旧約聖書に関するものである。だから教会史を専攻した者がこの本の書評を書くということは学問の限界を越すことと考えられたからである。この本の書評は旧約聖書を専攻した人が書くべきであると思ったからである。
それにもかかわらずどうして書評を書く事にしたのか?それはなによりも神学思想的でも信仰のありかたでも学問的な分野でも全然違った本に対する好奇心と知的欲求、またこの本による私自身の神学的、信仰的成熟への期待があったからである。
結果的に私はこの本の書評を書くようになったことを非常に光栄と思うようになったし、たとえ活字化された本を通してであっても、著者との出会いと著者を親しく知るようになったことを大変ありがたく思う。それはなによりも先に著者が、『神の救済史的経綸の中から見る-創世記の系図』(救済史シリーズ1、2007初刷)の著者序文で、族長たちが歩いていった信仰の足跡の中に彼らの生き働く信仰を体験しながらその恵みに感激して夜を明かしたという告白と、救済史シリーズ 2巻として出版される、「神の救済史的経綸の中から見る松明の契約とその成就-忘れていた出会い」の序文で、47年前に神の御前で一日に二時間の祈り、三時間の聖書通読を誓ってから今日に至るまで一日も欠かすことなく、その決心を実行しながらただ聖書中心の道を余念なく一筋に歩いて生きてきたという信仰告白から、私は神学者として限りない恥ずかしさを禁じえないし、一方では著者に対する信仰的尊敬の念を持つようになったからである。
そして更には、韓国で牧会をしながら非常に忙しく疲れて、本を書く余裕がないのに、救済史シリーズで2007年に初本を出版してから再び2冊目の本を2008年に、80歳を越した生涯にもかかわらず出版する著者の学問的情熱に感動せざるを得なかった。著者は神の恵みの体験によって、自分の命までも神のために差し出すほどの感激的な信仰生活をしてきた。著者は救済史シリーズ1巻で、この一連の本が神学的な研究物ではなく、祈りと数百回聖書を読みながら聖霊の照明を通して与えられた恵みを講壇で宣布してまとめられたものだと言っているが、その内容を見れば聖書に対する深い冥想と祈りを通して得た啓示神学的な研究物であることが分かるようになった。
すでに出版された、『創世記の系図』と今度出版される、『忘れていた出会い』を通して明らかなことは著者が旧約聖書を神の救済史的経綸の中から見ているという点である。実は旧約聖書だけではなく創世記から新約聖書のヨハネの黙示録までの聖書66冊は、時代的歴史と人間の社会的、政治的、経済的な実際の状況が違って、編集者または著者が同じではないにもかかわらず、啓示によって神の救済史的経綸を体験した人々の信仰告白であり、神の救済史的経綸は聖書の主題中の主題である。神は族長たち、預言者たち、神自らが選んだ僕たち、そしてイエス・キリストを通してご自分の救済史的経綸を人間に現そうとした。神を創造主と呼ぶこと、神を愛だと言うことも皆神の救済史的経綸の表現であり、基礎である。この経綸の中心にイエス・キリストがいる。この点で著者が本書を、「救済史的経綸の中心、イエス・キリスト」から始めたことは非常に意味が大きい。
著者は神の救済史的経綸を扱うシリーズで今度は、「契約」、特に神がアブラハムと結んだ、「松明の契約」に関心を置いている。主なる神はイスラエルの民と様々な契約を結んだのである。その中心内容は、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」ということである。神とイスラエルの民との関係はこの契約の関係である。イスラエルの民の歴史はこの契約から始まるのである。その具体的な事件が出エジプトの事件である。契約は守られることを原則とする。破るために結ぶ契約はない。だから神も人間もこの契約を守らなければならなかった。著者が特にアブラハムと結んだ松明の契約に関心を持ったのは、この契約で神の救済史的経綸が一番明確に現れたからだと言う。
松明の契約の研究を通して著者は読者たちに、神は一度結んだ契約を絶対に破棄しないということを確信させようと努力する。イスラエルの民がそれを破棄する時も神は最後まで守られたということである。イスラエルの民がカナンに定着した後、彼らが主なる神を忘れてバアルの神に仕える事で罪を犯し、また統治者たちが不義と不正によって民を政治的、経済的に抑圧して搾取する罪を犯したとき、預言者たちは民に主なる神を覚えなさいと言い、神のさばきを預言したが、結局神はその民と結んだ契約のゆえに彼らを再び赦して受け入れるしかなかった。これが、「神の契約愛」(Covenant Love)である。
著者は、神のかたちにかたどって尊く造られた人間が堕落して、そのかたち、神の契約の中に含まれた祝福、神の愛、神と共に歩む美しい恵み溢れる人生の思い出を皆忘れ、エデンの園から追い出されたので、この忘れていたものを再び捜し出して神にお会いするのが私たちの人生における窮極の目的であることを強調する。神との出会いは人間の一生を左右する最も重要な始まりであり、命の原動力なのである。この中心に松明の契約があると言う。
本書は、全部で五つの章と結論によって構成されている。著者は救済史的経綸と松明の契約の内容、その契約の歴史、契約の最終成就、そして結論で未来的な完成を扱っているのである。ところで著者は本書において、松明の契約の歴史(1)でアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフなど族長たちの歴史を通して現れた契約の歴史を記述して、その歴史(2)では出エジプトからカナン征服までの歴史を扱いながら、その最終成就をアブラハムとその子孫に対する成就で終っている。しかし、著者は松明の契約がここで終わったのではないと強調している。詩篇105篇を通してその契約は永遠に続くのであり、これが神の救済史的経綸に含まれた祝福であると言う。だから現代に生きている私たちもこの祝福から例外ではないというのである。それゆえ、神と結んだ契約を忠実に守らなければならない。神の戒めを御国がこの地に到来するまで守らなければならない。
本書の著者は、専門旧約聖書学者ではなく牧会者であると言われている。そしてすでに年齢は80歳を過ぎたと言っている。それにもかかわらず私が衝撃を受けるほど驚いたことは、重要な旧約聖書の単語をひとつひとつ原語で解いているという所、聖書の内容を聖書で理解しようとした所、本の中ある、「解説」などアブラハムの家系図、一つだけの長子の祝福、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフが一緒に同居した期間、ひと目で見る荒野の40年の旅路、シメオンとレビそしてユダ、イスラエルの12部族になったヤコブの12人の息子と、最後に著者が直接に現場調査を通して作成したイスラエル民族の「出エジプトと荒野の旅路」
などは、この本の価値を最も高めてくれるし、読者たちに大きな手助けになっている貴重な資料として評価できる。そしてこれらの資料は著者の年代記的記述の意図をよく現しているのである。
私と著者の歴史観の違いなどを前提にして、もうひとつ評するなら著者は神の救済史において最も基本的で、かつ重要なことは、「年代記の問題である」と考え、神の救済史を年代記的に記述しているようである。そして本の多くの部分を出エジプトの年、エジプトに居住した期間、族長たちの年代、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの歴史などを年代記的に研究したのである。このような年代記的研究を通して、旧約聖書に現された神の贖いの働きが歴史的な事実であることを知ることもできるが、歴史学的年代研究はその基礎であり、歴史理解の資料であって、歴史そのものではないとの見解もあることを指摘したい。私は、歴史は解釈であると見る立場である。だから年代記的内容を解釈するのが重要である。その解釈において神の救済史的経綸が歴史になることができるからである。神の救済史は年代記的(chronological)と言うよりは、カイロス(kairos)的であると言う。神の救済史は終末論的な出来事である。終末論的な出来事は年代記的出来事として理解される以上に意味がある。
しかし本書は、著者の徹底的な神の御言葉としての聖書観に基づいた著述であるために、たとえ私と違う見解があると言ってもこの本の価値には変わりがないであろう。韓国教会の他の牧師たちも著者と一緒に牧会をしながら聖書に対する深い冥想とそれを通して恵みの深い溝を捜し、捜し出したことを神の前で正直に宣布するだけでなく、本として出版するように願うのである。このような本がたくさん出版され、多くの信じる人々が(それを読めば)読むほど韓国教会は聖書に基づいた健全な教会として発展することができると確信するからである。教会人たちの信仰は理性的でありながらも、それを超越することのできる次元の世界を経験しなければならない。すなわちこの地上で天上を体験しなければならないというのである。著者が初めから最後までこの本で強調し、関心を持っているのが聖書に対する正直さである。聖書の内容は、人間の歴史的な生き方から救済史的な意味が明らかに現れるものである。
この本を通して多くの読者たちが、「それぞれ残された生涯を通して、止むことなく燃える神の愛の松明のうちに、イエス・キリストの贖いの恩寵によって熱い出会いが永遠に持続」されることを著者とともに期待する次第である。 前 韓神大学校教授・総長 現 韓神大学校名誉教授 全国教授共済会 会長 朱在鏞
現 敬虔と神学研究所 所長