朴潤植牧師は今まで誰も試みたことのない、世の中を驚愕させる二冊の本、「創世記の系図」と「忘れていた出会い」を刊行した。
10年程前、ロサンゼルスで開かれた世界宣教連合集会に参加した折、私の長年の友人である Andrew Phipps 牧師を介して朴潤植牧師に初めてお会いした。そこで、イエス・キリストが十字架を背負う過程を強い聖霊の御わざを通して生き生きと証する朴牧師の説教を聞き、大変多くの恵みを受けた。しかし、一部に、朴潤植牧師に対するよくない噂があり、果たして朴牧師がどのような人物であるかを正確に知ろうと、彼の動向を見守って来たことは事実である。
その後、10年の間に彼の説教を四度ほど聞く機会があったが、その度ごとに大きな感銘と恵みを受けた。それまで形式的かつで思弁的な信仰に浴していた私の魂が、まさに水を得た魚のように、霊的に覚醒した事を、ここに告白しなければならないだろう。
朴牧師を知れば知るほど、ひたすら聖書中心に生き、敬虔で尚かつ誠実な真の牧師である事が分かった。私は、そんな彼が一部の人から誤解を受けて来たことに対して非常に心を痛めていた。過日、Andrew Phipps牧師から、師が二冊の本を出版したという情報を得、早速、それらの英語版を入手し、読ませて頂いた。
この二冊の本の驚異的な著述に感嘆させられ、途中で本を置く事が出来なかった。一挙に読み終えた後、私は今まで朴潤植牧師に対し、どこか心の一隅で彼をイエス・キリストの僕として完全に信頼出来なかった事に対して、この上ない恥ずかしさを覚えた。そして、これまでの師に対して心から謝罪したいとの思いで、この本の書評に携わらせて頂いた次第である。
彼は、この二冊の本の中で、救済史的観点から聖書を読み解くという、これまで誰も踏み込む事の出来なかった巨大な談論を「契約的なチェーン」で編むという手法をもって、躍動的に展開したのである。そして、この主題がキリスト教神学の精髓であり、また、彼の信仰の理念、そして、神学的主題であることを完璧に、しかも論理的に叙述したのである。これは、まさに師が神の恵みに感謝しつつ、その一生を祈りと御言葉の研究に捧げた結果と言えよう。召命をうけてから現在にいたるまで、聖書を数百回読破する過程で彼が悟った御言葉の霊的な奥義を整理したものが、時満ちて今日出版されるに至った。
私たちは、今回この朴牧師の二つの作品を通して、牧師、あるいは神学者として、召命に値する使命を果たしてきたのかを、自分自身に問うてみるべきではないだろうか。そして、彼の論題に真摯に耳を傾けて、チャレンジする必要があるだろう。ここで、我々が直視すべき課題を大きく五つに整理すると以下の通りである。
第一に、イエス・キリストが受肉されて以降、二千年に及ぶ教会史の中で、これまでどの牧師や神学者も試みる事のなかった神学的主題を彼は、救済史的-契約的観点から捉え、聖書を明快に整理したということだ。世には聖書注釈や解説書が実に数多く存在する。実際、現存する牧師や神学者たちは既存の多様な神学的フレーム、代表的にはカルヴァンや正統神学、あるいは保守神学を基礎にして聖書を研究し、教え、講壇で語っている。
しかし、一人の牧師がキリスト教神学の原典である聖書を、このような巨大な談論、すなわち契約的観点から洞察的に解いた初めての出来事に私は驚きを隠せない。この二つの本は実に彼の巨大な神学思想の核心であり、彼の才能を遺憾なく発揮した、完璧な論理的展開書である。何よりも、著者の告白の通り学問書として初めて書いた文章であるが、難解な聖書の御言葉を、誰もが理解し易く叙述したことは、衝撃的なことである。
「系図」は「系図」のままに、「出会い」は「出会い」のままに完璧に調和させ、一致させる事の如何に難しいことか。また、アダム以後、歴史の進行過程で提示された聖書の数学的年代計算について、最近の考古学的発見と照らし合わせると、一部に異論が起るだろうが、それでも彼自身の弛まない努力と優れた研究の成果は、まことに驚嘆すべきものである。
実に彼の業績は、今日まで、いわゆる保守を標榜するだけで、牧師や教授としての使命を果たさず、教権を争うことに歳月を費やした、あるいは費やして来た牧師や神学者に対する厳重な警告ではないか!今こそ自らを省みて、心からの悔改めを行うべき時である。
第二に、朴牧師は現在82歳という高齢である。その彼が、「系図」と「出会い」に見られるような、平易で繊細ながらも非常に力強い文体で、彼自身が悟った霊的奥義について実に論理的に、しかも躍動的に書き綴っている。彼の文に接する瞬間、誰もが思わずその文章の中に引き込まれる事だろう。そして、呼吸する事さえいとわしいほどに、高まる緊張と期待で心がはじけそうになるのを感じるに違いない。それはまるで、魔法にでもかけられたようである。まさに、彼の叙述はある力に引かれるように、力強い霊的主導権をもって私たちの視線を捕らえるのである。それは他でもなく、朴牧師自身が御言葉に捕われて生きて来たからである。朴牧師の説教は、19世紀半ば、イギリスと世界を揺り動かした講壇の皇太子、チャールズ・ヘドン・スポルジョンを想起させる。
当時、スポルジョンは、急速に左傾化して行く風潮に憂慮しつつ、講壇で、或いは文書による説教を通して御言葉を語り続けた。彼の説教文は、まるで映像でも見ているかのように、読者たちの脳裏に焼き付いた。ロンドン中央浸礼教会に雲集した約7,000~8,000人の聴衆たちは、固唾をのんで彼の説教に耳を傾け、歓呼に湧いたと言う。スポルジョンは自分に与えられた恵みの御言葉を、まるで獅子が吠えるごとく力強く、熱情的に語った。しかし、その彼の宣教に対し多くの誤解や中傷、論争や論駁が起り、彼は長い間苦汁をなめざるを得なかった。そのような状況下でも彼は、御言葉に対する確信と、カルヴァン主義の伝統に固く立って牧会の務めに邁進したのである。言語は、その者の思想を顕著に著わす。
朴潤植牧師は、まさに御言葉の飢餓によって善悪の分別ができない、混沌としているこの時代に、神が遣わした言語の代弁者であるのかも知れない。老齢にかかわらず、これほどまでに聖書の御言葉に精通し、自由に、しかも自分の言葉で御言葉を引用する卓越した能力は他の追随を許さない。彼が、御言葉に捕えられ、神の救いを全身全霊で喜ぶ、神の僕である事を否定する要因は何もない。
第三に、朴潤植牧師の信仰/神学的基盤は、言葉で表現できないほどの苦難と試練を経て形成されたという事である。彼は、長年、外部と断絶された厳しい試練の中で、ただ神だけを信じ、希望を持ち続けた。そして、自分に任せられた聖徒たちの信仰の成長を一心に願い、牧会に努めて来たのである。それは、一瞬たりとも、その方の御手から脱する事の出来ないほどの強烈な召命が彼を掴んでいたからである。
彼は、彼自身与り知らない誤解や嫉視の中で、孤独な旅路を歩む事を余儀なくされた。しかし、彼の真の姿は、生涯のすべてを神に捧げ、聖書の霊感と神の主権をその両手に持っている正統カルヴァン主義の守護者である。
知っての通り、初代教会の聖者、聖アウグスチヌスは若かりし日に、放蕩生活や異邦哲学、一時は魔尼(マニ)教に溺れていた事がある。しかし、主に出会った後に彼は過去の生活をすべて清算し、神に献身したのである。彼は創造主の恩寵によって改心し、救いの恵みに感謝しつつ、遂に主に在る平安を得てその生涯を神に捧げたのである。
今日、私たちの中の一体誰が彼を指して放蕩者、あるいは異端者であると責め、排斥し、彼を罪に定めようとするのか。過去1,500年の教会史において、キリスト教会が彼を通じて受けた恵みと祝福は枚挙にいとまがない。そして彼の告白録が、多くの聖徒たち、とりわけ逆境の中にいる読者たちにどれだけ多くの励ましを与えたか計り知れない。彼は今もなお、過去二千年の教会史に於ける希少な巨星として、多くの人々から尊敬され続けている。
確かに、世の中に完璧な人間はいない。朴牧師の著作、「系図」と「出会い」は、まさにアウグスチヌスの懺悔録を彷彿とさせる。また、この本は読む者に感動を与えるだけではなく、彼の神に対する、まるで活火山のような熱望さえ伝わってくるのである。
第四に、キリスト教神学の核心は、聖書から聖書へ、預言から成就、すなわち完成への展開である。その中心が、旧約の様々な象徴と、新約におけるキリストの苦難と十字架の死であり、主の再臨を持って完成される。朴牧師は、彼自身多くの苦難や試練を経て来た。それ故、イエス・キリストの再臨と、その光栄を切なる思いで待ち望んでいるのである。これはまさに、族長アブラハムからイサク、ヤコブ、ヨセフや、出エジプト以後、モーセとヨシュアによって叙述された敬虔な族長たちの軌跡は、今後展開される著作で具体的に描写されるだろう。
彼の聖書の救済史的理解、すなわち契約思想は徹底的に聖書に基づいている。これは過去に、彼が保守的な神学校と教団で学んで経験したことに裏付けられたものと言えよう。彼は高齢にありながらも、委ねられた最後の召命のために、今日まで誰も挑戦する事が出来なかった、この大事業に取り組んだのである。実際、これほどの巨大な談論の解明を、私たちの周辺の、一体どの牧師や神学者たちが成し遂げる事が出来るだろうか。
神の御言葉である聖書に精通している朴潤植牧師の姿は、「神学」という一分野に閉じこめられている神学者たちに、聖書を全体的、且つ洞察的に悟らなければならない、という大きな挑戦を与えている。
一般的に、神学者たちは自らが専門的に研究した一分野に於いて精通しているというのが実情である。ところが、朴潤植牧師は聖書を自由自在に活用しながら神学のすべての分野に通じているのである。これはまさに、彼に賜った霊的な能力と言えよう。これは一生涯聖書に親しみ、黙想して来た朴牧師が、神との対話と、そこから与えられた愛と恵みに対する感謝によって編み出された畢生の大業である。
彼の頭の中には聖書の御言葉が充満している。また、その心は、御言葉を熟考し、実践しようとする熱望で一杯である。今日まで寄留者のようにして世に暮らし、使徒パウロのように、主の祭壇に我が身を生贄として捧げようと身悶える一人の老僕の姿を見る思いである。
第五に、論理が実に理路整然としていて、課題や適用が卓越で自然であるという点である。これは、彼の長年の経験と、これまでの牧会奉仕を通して体得されたものであろう。非常に具体的で挑戦的な彼の適用は、簡潔でありながらも徹底的に聖書に裏付けられている。
確かに簡潔で平易な文体ではあるが、その中に集約され濃縮された彼の文章は、これまで、どの牧師や神学者たちが図らずも近接する事が出来なかった神学的領域にまで及んでいる。特に、神学的論争点、例えばアブラハムとヤコブ、ユダとヨセフとの関係や、モーセの生涯を通して展開される主題は、その分野を専門とする神学者たちでさえ容易に踏み込む事が出来なかったものである。
ノアが箱舟を作った期間が、120年ではなかった事を明らかにした点や、イスラエルの民が荒野で宿営した42カ所、すべての宿営地を完全に収録した事は、ノアの時代やモーセの時代以降、悠久の歴史の中で、最初に成された研究成果であり、聖書と神学を一生涯研究して来た学者たちでさえ想像だにしなかった驚異的偉業と言えよう。
簡潔な説教、物語のように巨大な談論を解いていくといった手法は、学問的論理と根拠を重視する神学では断然引き立つ部分である。朴牧師は、これらすべてをまるで祖父が孫にでも話して聞かせるように、麗しく、飾らずに談論を展開している。
これは、新旧約聖書すべてをコンピューターによって映像化し、自由自在に活用するような、いわゆる洞察的理解なしには不可能な大業であり、まさに、彼だけのノーハウだと言えるだろう。今日まで、誰も解明出来なかった神学的難題を明快に解釈した妙味は圧巻である。
書評を結ぶにあたり、現在キリスト教界に緊急に求められるものは何かを考えたい。それは、長年の沈滞を乗り越える為に、先ず聖書を正しく理解して実践する事である。これは、忘却に附された過去の光栄を回復し、激動する21世紀にあって、私たちキリスト者が追い求めるべき大命題である。その為には、御言葉の生活化はもちろん、神学的思考、救済史的運動が活発に展開されなければならない。
実に、御霊による啓示の御言葉、聖書の理解と効果的な適用は、すべての牧会者たち一様の望みである。特に、牧師が講壇でどのように御言葉を効果的に伝達するかは一生の課題である。なればこそ、牧師が誰よりも聖書に精通せねばなるまい。これは単に文字的解釈だけではなく、全体の流れの中にあるそれぞれの意味を正確に現す必要がある。そして、歴史の中に聖書の啓示がどのように成就したのかを証明する事が大変重要な鍵となるのである。
御言葉の洪水の時代であり、御言葉が稀な時代というパラドックスの時代を生きている私たちは、啓示された御言葉を通して、救済史的-契約的に神の御旨を推し量らなければならない。
この度刊行された朴潤植牧師の、「創世記の系図」と「忘れていた出会い」は御言葉に渇く聖徒たちの霊的欲求と、より成熟した生を渇望する人々の魂を潤す事になるであろう。私はその確信をもって全世界の教会の前に喜んで本書を薦挙する事とする。一読を勧めると共に、倍の祝福を祈ろう。 The Research Institute of Reformed Theology, President Andrew J. Tesia Ph.D.