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 本というのは著者の思想の圧縮である。本には著者が信じて、知って求める思想の体系が表れ、それによって尊敬を受けたり批判を受けたりする。一人を評価するためにはその人の著作物すなわち著書や論文などの1次資料を通じて分析して評価されなければならない。他人の2次資料は一つの助けに過ぎない。 


 書評者は著者を知らない。会ったことはもとより、遠くから見たこともなく、彼の説教を直接聞いたことも、テープを通して聞いたこともない。また彼が遣わされている教会がどこにあるかも分からない。ただ、「噂によれば」程度の理解であった。 

 偶然にその本を求めて読んだ。今まで幾多の本を書評した時とは違って、「批判的姿勢」でその本に下線を引きながら読んだ。「一体何の話をしているので彼に対する騒々しい噂があるのか?」という姿勢で熟読した。 

 まずこの本が持つ幾つかの特徴を集約しよう。 
 第一、神の救済史的観点で聖書解釈をした。 
 人類の歴史は神の救済史の摂理によって維持されて進む。著者はこれを強調し、本書全体を本のタイトルと一緒に、「神様の救済史的」観点で叙述した。これは著者の思想を表すこととして、著者が信じて従う根本的な思想が何であるかを正しく提示した。 

 第二、創世記の正しい理解をはかった。 
 創世記は聖書の前書きであり、聖書を研究する関門である。著者は創世記の核心である、「系図」すなわち、「トーレドート」を探求した。これは単純に、「生み、死ぬ」こと繰り返す年代記的記録ではなく、神の救いの摂理をあらわしている。系図の救済史的意味と流れを探求することで創世記の正しい理解をもたせる。 

 第三、聖書から聖書を解釈した。 
 著者は序文で明らかにしたように神学者ではなく牧会者であり伝道者である。著者は神学的理論を紹介するのではなく、聖書から問題を捜してそれを聖書で解釈する一番原理的な解釈を試みた。理論の羅列で主題を濁ごす本がたくさん見られるなかで、本書は聖書の救済史的主題に従って聖書で解釈する、「平凡の中の非凡」を見せた。 

 第四、「解説」という資料を提示した。 
 他の本では見られないところであるが、その分野に対して他の人々の主張が何なのかを紹介して、読者たちにとって正しい判断の素地を提供する。よく自分の主張だけが「最高、最善」であると強調する場合があるが、本書では著者の立場と違う人の資料も紹介して理解の幅を広げている。 

 五番目、現場の言語で叙述された。 
 本書では著者が査経会で講論したことを活字化したと言った。使われた言語が口語体で、講壇からそのまま伝達されるメッセージの躍動感を持っている。私たちの伝達する言語が生きている現場の言語でなければならない。本書はコミュニケーションのこのような特性をよく活用した。 


 本書の体制や編集は非常によくできてあり、読者が負担のなく読める分量という長所を持っている。書評者はこの本を読んでから頭の中に多くの「疑問符」を持つことになった。その中から幾つかを挙げようと思う。 

 第一、本書の著者がどうして論難の対象にならなければならないか?

 書評者も著者に対する一方的な情報の理解を持っていた。ところが本書を精読した後、どうして本書の著者が論難の対象にならなければならないのかということに、混乱と切なさが生ずるようになった。例えば、一般的に学者たちはノアの方舟が120 年間で造られたと言っているが、本書では聖書に依拠して120 年ではないということを明快に語っている。このようにただ聖書で聖書を解釈しようと労する著者の真実が、その間多くの人々に遮られていたということがまことに切ない。 

 第二、著者の批判者たちはどうして黙っているのか? 
 本書の初版が 2007 年 10 月 27 日に刊行されてから2 カ月が経った。この本に問題があったならそれを指摘して、著者の思想的問題を提示しなければならないのに、どうしてみんな沈黙しているのか? 

 第三、正しい評価を下す時になったのではないのか? 
 その人の1 次資料を持って評価しなくてはならない。批評者の批評を根本的な資料にすることは学問的批評方法ではない。批評者たちの中には公正な人もいれば、悪意的批評、または職業的批評者たちの多さを否認することができないからだ。 

 『創世記の系図』を読んで書評者はまことに切なさを感じるところ、韓国の教界が一つの事実を把握して理解するのにあたって、実体に近づくのを渋っていることと、すべてのものの基準を神の御言葉である聖書によらなければならないにもかかわらず、先入観や人間関係、政治的論理によるということは誠に残念である。 

 もう私たちは和解の道を歩もう。神が私たちに睦まじくする努めをくださった(Ⅱコリ5:18 -19、Ⅰテサロニケ5:13、コロサイ書1:20)。明らかにすべきことは明らかにして、謝るべきことは謝って、私たち皆が手を取り合う和解の道を歩まなければならないことに、本書がその「誘い水」になったらと願う。


現 基督新聞 主筆

前 総神大学校 客員教授
韓国相談宣教研究院 院長
韓国長老教史学会 会長


金南植



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