イエス様はマタイ9:38を通して、収穫するものは多いが働き人は少ないと語られました。人はたくさんいますが、いざ仕事を任せようとしても、神様から信頼され喜ばれる人は非常に少ないためです。ですから神様はいつも「バルナバ」のような働き人を探されているのです。
1. 聖書にはバルナバのような隠れた功臣がたくさんいます。
人類の歴史や聖書の中で、誉れも名もなく大きな働きのために偉大な業績を残しても、人から知られない人々がたくさんいます。モーセをエジプトから出るときの霊的指導者だと言いますが、後ろで彼の目と心になってくれた人はまさに妻の父エテロ(またはリウエル)と長男ホバブでした(出エジプト18章, 民数記10:29-31)。また荒野生活の初期にアメレクと戦う時、モーセが手を上げれば勝ち、手を下ろせば負けましたが、疲れ果てたモーセの両手が降りないように石を置いて支えたアロンとホルの苦労のおかげで勝利することができました(出エジプト17:8-16)。カナン征服戦争のときには、85歳の老人カレブが、体の大きい壮大なネピリムの子孫アナクの子孫を打つことによって、イスラエルの民が地の分配をより円滑に行うことができました(ヨシュア14:6:15)。今日の本文のバルナバも、初代教会の時代にエルサレムの共同体が生まれた直後、自分のことより他人を助ける働きをもっと重要視して教会に忠誠した隠れた働き人でした。
2. バルナバの最も大きな業績はサウロを「使徒パウロ」にしたことです。
聖書はバルナバについて、最初にこう説明しています。使徒行伝4:36に「クプロ生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(慰めの子)と呼ばれていたヨセフは」と書かれています。バルナバという名前の意味は「慰めの子」です。彼の本来の名前は「ヨセフ」ですが、あまりにも教員たちを支えてくれて助けてくれるので「バルナバ」(ギリシャ語「バロナビス」)、「癒しの子」という意味で呼ばれました。キリスト教を飛躍的に発展させた人は使徒パウロですが、バルナバの隠れた支えがなければ不可能なことでした。クリスチャンを迫害していたサウロが改心し、パウロとなった事実を誰も信じてくれなかったとき(使徒行伝9:26)、最初に彼に心を開いた人がバルナバでした。バルナバが使徒パウロを連れて使徒たちに会い、彼がイエスを大胆に証ししたことを話すことによってパウロは弟子たちと共に出入りするようになりました(使徒行伝9:27-28)。ここで「連れて」という単語は語源的に「自分が前に立って積極的に強くつかんであげた」という意味であり、「話した」とは「ひとつひとつ説明してあげた」ということです。以前パウロは主の弟子たちに対しての脅威と殺意が満ちていたために、バルナバがこのように情熱を持って弁護しなければ弟子たちがパウロを受け入れることは難しかったはずです(使徒行伝9:1, ガラテヤ1:13-14)。バルナバはユダヤ人たちがパウロを殺そうとした時、彼をタルソに非難させ(使徒行伝9:29-30)、再びタルソから連れ出して自ら自分のアンテオケ教会の牧師の座をあけわたしました(使徒行伝11:25-26)。彼は祈る中で、パウロがアンテオケ教会の責任者にならなければならないことを直感的に悟り、ためらわずに教会を彼に任せ、自分は彼の下で助手の役割を果たしました。バルナバの信仰と人格は、教会が栄えて弟子たちの数が驚くほどに増える結果を招きました(使徒行伝11:21, 12:24, 19:20)。バルナバのすべての人格が変化することになった機会は五旬節の聖霊降臨を体験した出来事で、その時から彼は聖霊の人になり、自分の考え、計画、意志のない人生を歩みました。パウロと第1次伝道旅行に行く時も、聖霊の指示によって送られたと記録されています(使徒行伝13:2-4)。私たちもこのように真なる聖霊の人として、他人を癒し、助け、守る、恵みあふれる人としての役割を果たす「バルナバ」(癒しの子)にならなければなりません。
3. バルナバの生涯は共同体のために惜しむことなく献身する人生でした。
バルナバはかつてクプロという地中海の島で生まれたユダヤ人のレビ部族の人で、その地域のたくさんの農場を所有したお金持ちでしたが、五旬節の聖霊降臨を体験した後、その地を売ったお金を使徒達の足元に置きました(使徒行伝4:36-37)。このような彼の謙遜で尊敬できる寛容をねたんだアナニヤとサッピラ夫婦は、バルナバのように自分の所有を売り献金しようとしましたが、嘘をついたために二人とも死んでしまいました(使徒行伝5:1-11)。またバルナバはエルサレム教会が凶作によって苦しい状況の時、パウロと一緒にアンテオケ教会の信徒を励まして扶助を集めて手渡しもしました(使徒行伝11:27-30)。彼は貧しい人をかわいそうに思えば、その正しい行いを覚え(箴言19:17, 21:13)、飢えた人の心を満足させれば、昼のように明るい生涯を送るという(イザヤ58:10)神様の御言葉をそのまま信じて行った真なる「癒めの子」でした。バルナバとパウロの美しい信仰の姿のために、彼らに御言葉の教えを受けいれた多くの群集が弟子になることを決心し、そのアンテオケでついにクリスチャンと呼ばれるようになりました(使徒行伝11:26)。
結論: バルナバは主人公を光らせる為に、見えないように献身した舞台裏の人物でした。彼はパウロを使徒として登場させるために力を尽くし、ついにパウロを異邦の宣教の中心であるアンテオケ教会の責任者としました。使徒行伝15章以降ではバルナバの活躍に対する内容は少しずつ消えていき、パウロだけが光り輝いています。
信徒の皆さん、高くなろうとする人だけがいるために教会に問題が生じます。私たちも、バルナバのように自分を表さない、隠れた謙遜な働き人になることを喜ぶ信仰の持ち主となり、ただ神様にだけ栄光を帰する信徒になりましょう。