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 人間は自分の利益の為なら欺きや暴力を用います。しかし、神様は慈しみ深き方です。「慈しみ」というのは神様の真実性を反映している言葉で、頼りがいがあり、飾りがなく、偽りがないことを意味します。神様は真実なる方で、信じる信徒は神様に似て真実なる暮らしをしなければいけません。では、真実なる暮らしとは何でしょうか。

1. 偽りと飾りのない暮らしです。
 偽りはサタンの性質であり、その終点は殺人です(ヨハネ8:44)。よって、神の霊を受けた人にはサタンの性質、偽りがあってはいけません。また、外だけ飾る人になってはいけません。神様は少しも変わりのない方なので、今日も明日も永遠に同じ方です(へブル13:8)。私たちは他人の視線を意識し、上辺だけ聖なる暮らしをするのではなく、全ての生活において真実性を持たなければいけません。何よりも信仰においては、偽りと飾りがあってはいけません。信仰なしでは神様を喜ばすことは出来ません(へブル11:6)。私たちは変わることのない信仰によって、主が歩まれた道を歩んで行かなければいけません。

2. 私たちの言葉と行い、奉仕する姿勢も一途でなければなりません。
 聖書は神様の御座の基が義と公平であると語っています(詩編89:14, 97:2)。あれこれ左右に揺れたり、他人を意識しながら、行うふりだけをする暮らしは、自己中心的な心と欲望にかきまみれ、義と公平を失ってしまいます。私たちは唯一神様にだけ望みを置き、揺れることのない強い信仰を持った暮らしをしなければいけません(へブル3:6, 10:23)。

 私たちは宇宙の存在の根源と自分自身の実存的根源の前で、また、神様の創造的根源の前で、アーメンの暮らしをしなければいけません(黙示録7:12)。世の迫害と憎しみ、侮辱や酷い言葉で苦しみを受けるとしても、私たちのために十字架の悲惨な苦しみを受けられたイエス・キリストを想いながら、再臨されるイエス・キリストを「アーメン」で待ち望まなければいけません(黙示録1:5-6, ガラデヤ1:4-5, エペソ3:20-21)。イエス・キリストが来られる時、私たちの答えは唯一「アーメン、主イエスよ、きたりませ。」という信仰で、再臨を待ち望む信徒になりましょう(黙示録22:20)。

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